ウィンド・リバー/キャラクターの多面性とその機能

 

大学の授業において、ブログをかいて思考をまとめ、他者からコメントをもらうことは、アカデミックライティングにおいて非常に有効な訓練となるという話があったので、練習がてらに考えたことを書き留めてみる。間違いがあれば、訂正や助言をコメントしていただきたいし、考察をより深めるようなコメントも非常にありがたい。

 

ウィンド・リバーを鑑賞した。
ボーダーライン [原題:Sicario] (2015年)
最後の追跡 [原題:Hell or High Water] (2016年)
テイラーシェリダンによる脚本作品はどちらも鑑賞後の余韻が長く、あれはなんだったんだ?という感覚が一週間ほど続いてた。ウィンド・リバーも同じく消化するのに時間がかかったが、思いを巡らすうちに、キャラクターの二面性にたどり着いたのでメモを残しておきたい。

 

ウィンド・リバーにおいて、登場人物のキャラクターは多面性を持つよう構築されている。また、物語が進む中でそれぞれのキャラクター同士の共通項が多層的に折り重っていく。多面性を考えるにあたり、"double"がキーワードとなる。

 

doubleには二倍や二重といった意味に加えていくつかの意味がある。

-〈人・性格など〉裏表[二心]のある,不誠実な,陰険な.
a double character 二重人格(者).
-〈意味が〉二様にとれる,あいまいな.
a double meaning あいまいな意味.
-生き写しの人[もの].
She's her mother's double [the double of her mother]. 彼女は母親の生き写しだ.
【映画】 代役,替え玉 〔for〕.
〈…の〉二役を務める.

In the play she doubled the parts of a maid and a shopgirl. その劇で彼女は女中と女店員との二役を務めた.
(出典: weblio英和辞典https://ejje.weblio.jp/content/double)

また、人種や国籍において、父と母で異なる血筋を持つもの(いわゆるハーフ)をdoubleと称することもある。

 

例えば、主人公コリー・ランバートは人種としては白人に属するものの、元妻はネイティブアメリカン*であり、コリーもそのコミュニティと密な関係を築いている。そのアイデンティティは"double"(曖昧なもの)である。また、娘エミリーを無くしたという点において、ナタリーの父親マーティンとも悲しみを共有する。
*(本来、部族名で呼称するべきところだが、はっきりとした部族名が不明だったため本表記を使用する。)

FBI捜査官のジェーンは、その若い女性像が事件の犠牲となったナタリーやコリーの娘エミリーのdouble(生き写し)として描かれる。極寒用の装備に着替える際のジェーンの下着姿は、ナタリーと重ねられているし、青のジャンプスーツに身を包んだジェーンの姿はコリーの娘、エミリーのあり得たかもしれない姿である。また、ジェーンは、観客のdouble(代役)でもある。ワイオミング州ウィンド・リバーに派遣されるジェーンは、アウトサイダーであり、この土地のことをほとんど何も知らない。我々、観客の視点はジェーンの体験に投影されている。

 

コリーの息子ケイシーは、髪が長く声がわりも経験していない中性的なキャラクターとして描かれる。白人とネイティブアメリカンの血を受け継ぐのは文字通り"double"である。馬を手なづけた後に「カウボーイみたいだ」と答えるも、父コリーに「違う これはアラパホ族流だ」と諭されるシーンもあった。カウボーイ:「征服する側」とネイティブアメリカン:「征服される側」の二面性を持つ。

 

観客は登場人物のキャラクターの一面に没入するうちに、そのキャラクターの持つ他の一面にも共感を覚える。

例えば、私は男性だが、ジェーンを通していつの間にか女性の視点に没入していた。先ほど述べたとおり、FBI捜査官のジェーンは、我々観客の視点を体現する。その地域の事情にあまり明るくないアウトサイダーのジェーンに、私は自らの姿を投影した。ジェーンの視点で物語を追いかけるうちに、私はジェーンのもう一つのキャラクターである、「若い女性」という視点を獲得してゆく。物語の終盤、ジェーンは病院のベッドで「雪の中を10kmも走ったの?」と涙を流す。ジェーンは、年齢も近く同性であるナタリーがレイプされ、そこから必死に逃げる過程で生き絶えたことを想像して涙を流すのである。この場面において、私はジェーンと同じ感覚で、自分が若い女性でレイプされ逃げ惑うことを想像し、感情が高ぶってしまった。

多面的に構築されたキャラクターは、物語への多様な入り口を用意する。ありうる可能性に自分を投影し、さらに実現不可能な可能性にまで思いを巡らせるのだ。日本人男性であれば、「もし私が被害者の父親だったら、、、」というのはありうる可能性で、「もし私がアフリカンアメリカンの立場だったら」というのが実現不可能な可能性である。多面的に構築されたキャラクターは、観客を物語へと没入させる装置である。

 

ネイティブアメリカの保留地問題は、アメリカ国民でなければ直接的な関わりのない事柄である。ただ、世界中の観客がこの作品に感銘を受けるのは、こうしたキャラクターの多面性が強調されるからではないか。今一度、あり得たかもしれない可能性から、実現不可能な可能性にまで思いを巡らせ、テイラー・シェリダンの過去作を鑑賞したいと思う。